「集金旅行」-井伏鱒二-

荻窪にあるあるアパートの主人が死んで、小学生の男の子がひとり取り残された。主人と親しかった主人公は。部屋代を踏み倒して逃げた人たちから勘定を取り立てるため、昔の恋人に慰謝料を請求する年増美人と一緒に、岩国、下関、福岡、尾道、福山と集金旅行に出る・・・・という話。
といっても取り立てに手こずるようなトラブルもなく、どちらかというと主人公たちとその土地で出会う人々とのやりとりがおもしろく、紀行文(というとちょっとおおげさかも)としても読めます。小説なんてそんな大げさではなく、こんなちょっとした話に、ちょっとした+αがあればいいんじゃないのかな。もちろん文章自体の魅力というのもあるけれど。ちなみに1957年に佐田啓二、岡田茉莉子主演で映画化されてます。

土曜日は午前中から表参道へ。で、用事が済んだ後に、ドラゴンフライカフェでキッシュを食べて、カウブックスをのぞいて、近くの雑貨屋(名前は忘れた)でパリのフローディングペンを買って、ギャラリー360°で、「日本の60年代のグラフィック」を見て、ロンズデイル、ブックオフといつもの道を歩き、明治通りから渋谷に出たのだが、スーツに革靴のせいか、荷物が重いせいか、太股がすでに筋肉痛。普段、私服で会社に行っているにしても、会社員としてそれはどうなんですかねぇ。

「吟味手帖」-小島政二郎-

雑誌「あまカラ」のせいで、なんとなく小島政二郎というと食べ物に詳しい、食通というイメージがあるけれど、久米正雄に「小島なんか、鼻ッつまりじゃないか。鼻ッつまりに、物のうまいまずいが分かってたまるものか」なんて言われていたとは。とはいうものの、日本のあちらこちら出かけていっておいしいものを求めるさまを読んでいると、ほんとうにたべることがすきなのだなぁ、と思う。もちろん“好き”なだけではないのだろうけれど・・・・。今の世の中なんて小島政二郎に言わせれば、まずい食材に過度に人工的な手を加えたどうしようもないものばかり、ということになるのだろうか。いや、食べ物だけでなく、空気までまずいと言われそう。

こんな本を紹介しつつ書くのもなんですが、日曜日に中目黒にあるくろひつじにジンギスカンを食べに行ってきました。倉庫を改装したという店は、古い木の柱や窓など、ところどころにその面影を残しつつ、高い天井と大きく取られたガラス窓、白いテーブル・・・・など、一見するとここでジンギスカン?と思ってしまうくらい。入り口にある上着や鞄を入れるロッカーなどもカラフルで、でもきつい印象を与えることのなくていい感じ。
その印象とは逆に、メニューはジンギスカン、追加肉、追加野菜、ライス、キムチ、あとはソフトクリームとドリンクのみ。肉の方も一般的にジンギスカンに使われる生後1歳未満のラム肉ではなく、生後1~2歳未満のマトンを使っているとのこと。帽子のようにまんなかが盛り上がった鉄板で、やわらかいお肉を焼きながら、昼間からビールを飲んでいると、いくらでも食べられそうな気分になってしまいます。隣でどこかのお店の店員らしき男の人が2人いて、まるで定食のようにガンガンお肉や野菜を焼いていたのもなんだか今の中目黒っぽい。
私は鼻ッつまりなんでぜんぜん気がつきませんでしたが、帰りに渋谷に寄って、タワーレコードのエレベーターに乗ったら、すごい羊の肉の匂いがしていたそうです。

「婚約」-山口瞳-

3月になっても寒い日が続いていて、なかなか春らしい暖かい日は来ない。しかも今日の夜から明日にかけては雪が降るらしい。まだ外は薄日が差しているという感じだけれど、どうなのだろう。

ここ一年はいろいろなことをどうもマイナス方向に考えがちだったような気がする。そしてそのマイナス方向が、どうも山口瞳の作品とマッチしていたような気もする。あいかわらず「血族」や「家族」を読む勇気はないけれど、解説では、大衆文学から純文学への移行期に書かれた作品と評されているこの短編集も、気むずかしい、悲観主義的な主人公(≒山口瞳本人)の様子が、文章や会話のあちらこちらに描かれて、全体を覆うトーンはグレーだ。黒ではないところが山口瞳らしいと思う。自分の心情としては黒なのだが、白の気持ちも分からないではない、そんな黒と白のあいだを行き来しているうちに、どんよりとしたグレーに染まってしまう。そんな感じ。

しかしどんなに寒い日が続こうともいつかは春になり、暑い夏が来るわけで、私たちはそれを待ち続けるしかない。ただいつ春になってもいいようにその準備をきちんとしておくことは大切で、それがないと単に暖かくなっただけになってしまう。そして私はまだ山口瞳の最後の文章を読んでいないけれど、「血族」や「家族」を書いた後に、山口瞳にとっての春は訪れたのだろうか。

「LeBol カフェオレボウル」-山本ゆりこ-

うちにある2つのカフェオレボウルは、ほとんどカフェオレを飲むときに使われることはなくて、おもにはスープやごはん、あるいはちょっとしたお総菜などをよそうのに使われているのだけれど、そういった用途としても機会が、出会いがあれば、いい感じのボウルがあるといいな、なんて思っていたところ、先日、吉祥寺のギャラリー・フェブでこの本の出版記念イベント「フランスのボウルと小さな物産展」が開かれていたので、それほど期待もせずに行って、模様や形に工夫を凝らしたいくつものカフェオレボウルが、棚や階段に並べられているのを見ていたら、なんだか新しいボウルが欲しい気分になってしまい、とりあえず本を購入。実際は、どこにでも置いてあるものでもないので、ゆっくり探せばいいなぁ、と思ってます。

ところで、カフェオレボウルといえば、その存在を知って間もない頃、あるフランス映画を観ていたら(タイトルは忘れました)、朝、男の人がベッドで寝ている女性に「コーヒー飲む?」と聞いて棚から取り出したのが、カップではなくボウルで、「ホントにフランスで使われてるんだぁ」、なんて思っていたら、そのあと、無造作にボウルの中にインスタントコーヒーの粉を入れ、そのまま水道のお湯をボウルに入れて、女の人に差し出した・・・・というシーンが忘れられませんね。少なくともお湯くらい沸かして欲しいし、ミルクも入れて欲しかった。フランスの自宅におけるコーヒーの扱いなんてそんなものなのかな。日本人はなんでも凝りすぎるからね。
そんな日本人の性癖を半分皮肉りつつコーヒーの入れ方とお茶の作法を関連させていたのは、獅子文六の「コーヒーと恋愛(可否道)」でした。ついでに獅子文六は、この本を書くためにコーヒーを飲み過ぎて胃を悪くしたとか。皮肉っているのか、まじめに説いているのか、分からない話。

コーヒーついでにもうひとつ、今年になってからまったく映画を観ていないのは、会社が終わるとレイトショーにも行けない時間になってしまっているのと、休日は古本屋巡りばかりしているせい、そして大きいテレビとDVDプレーヤーを買ったので、TSUTAYAでDVDを借りたりしているせいで、かといって、予告も見てないし、チラシももらってきてないので、今なにが上映されているかぜんぜんわからないのだけれど、とりあえず、目に付いたジャームッシュ監督の「コーヒー&シガレット」を見るべく、前売り券を購入。
コーヒーとタバコにまつわる短編映画として1986年に作られたものの単独長編化らしい。11本のショート・ストーリーを連ねた掌編集なので、長編化ではないのかな。よくわからん。前売りを買うとロゴの入ったライターがついてくるのが個人的にはうれしい。黒はもうなくなっていたので、白が二つになってしまったけれどね。でも公開は4月2日から、まだまだ先ですね。