「コチャバンバ行き」-永井龍男-

昨日は1年以上会っていなかった友達と久しぶりに会いました。今日から新しい職場で働くということでそれほどのんびりもできなかったのですが、会わなかったあいだのお互いのことや会わなかった理由などいろいろ話せてよかった。同じような歳で性格的もちょっと似ているところがあって同じようなこと考えていて・・・・。それにしても人はそれぞれ生まれた場所も環境も違って、性格や考え方も違うわけで、そういう人たちが社会の中でうまくつきあっていくのってほんとに大変だなぁと思う。
私なんかこっちからプレッシャーを受けて、あっちからプレッシャーを受けて右往左往しているうちに時が経ってしまって、気がついたら歳をとってそれでも相変わらず右往左往しながら死んでいくんだろうなぁ。

さて今日から4月。うちの会社にも新卒の新人が入ってきて朝礼で紹介されていました。私が前の会社で出社したときは、9時半に会社に行ったのに誰も出社いなくて、床に敷かれた簡易ベッドで寝ていた人と徹夜明けでパソコンに向かっていた人だけが、古い大きな洋館の薄暗い部屋の中にいるだけで、壊れかけたソファーで面接した人が来るまで近くに置いてあった雑誌を昼頃まで読んでました。
小さな窓から差し込む日差しの影とラジオから小さな音量で流れていたスピッツの「チェリー」が妙に心に残ってて、そのせいか今でもこの時期になると「チェリー」が聴きたくなります。

「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」-石井好子-

先週末から小学校が春休みに入ったみたいで出勤するときに小学生とすれ違わなくなったせいで出勤する人の足音だけが響く駅までの道がなんだか静かだ。
小学生といっても何が楽しいのか通り沿いの家の柵を笑いながら横歩きしていたり、騒ぎながら石を蹴っている子供がいたり、声だけ聞いているとおばちゃんみたいな笑い声をあげてうわさ話をしている高学年の女の子の団体がいたり、兄弟なのかカップルなのかずっと下を向いて何もしゃべらない男の子と女の子の2人組がいたりさまざまで、改めて6年間という期間の長さを感じてしまいます。

いつもはそんな小学生を避けるような道を歩いているのだけれど、今週は小学校に沿う道を歩きながら校庭のすみに植えられている桜を見つつ駅まで歩いています。駅の向こう側の神田川沿いの桜もきれいなんだろうなぁ、とか目黒川や西郷山公園はにぎわっているんだろうなぁ、と思う。
できることならば仕事なんて忘れて、平日の午後にPACIFIC 57とかオーガニックカフェの窓際の席に座ってゆっくり本でも読んでいたいです。まぁそんなゆったりとした気持ちにもなれないんですけどね。

「北欧デザイン-テキスタイルとグラフィック-」

この本はシリーズの一冊目「家具と建築」を青山ブックセンターで見たときから発売されたらすぐに買おうと思ってました。いいねぇ、また北欧に行きたい。行けるのかな。行けるといいなぁ。

朝から天気が良かったので自転車へ三鷹へ。ほんとは渋谷でレイモンド・ローウィ展でもみようかと思っていたんですけど、こんな日は電車に乗るのももったいない、体力があれば調布ぐらいまで自転車で行きたい気分なのです。といってもどこへ行っても行くところは同じ、というわけで久しぶりにフォスフォレセンスでフレンチトースト食べて来ました。そして「こういうところでたばこを吸うのは気がひけるなぁ」などと思いつつ一服。まわりの本を手当たり次第手に取ってみたりして。
もちろんゲンセン館なども本屋ものぞいて、上々堂という新しいきれいな古本屋ができていて、しかも絵本とか食べ物についてのほんとかがそろっていてうれしくなってしまった。調べてみたら去年の11月に西荻の興居島屋との共同経営というかたちでオープンしたとのこと。そういわれると本のラインナップが似てるかな。

夜は仕事帰りのミオ犬と待ち合わせて吉祥寺の一圓で餃子とチャーハンを食べる。吉祥寺駅は花見の人で大にぎわい。先週の金曜からお米を食べてなかったので、お米が食べたい気分だったのです。そういえば今週は昼ご飯もほとんどデニッシュだけとかだった。しかも一週間お腹こわしっぱなし。ちょっとやばいかな、と思って、お風呂に入る前に体重計にのってみたら46.7kgぐらい、47kgきってました。あぁ・・・・。

「月曜の朝、金曜の夜」-山口瞳-

会社帰りに久我山を歩いていると友達から電話。「春にして君を想う」を聞いていた頃に大阪に引っ越していった友達が東京に仕事できているとのこと。しかも今日帰る&まだ仕事?新幹線の最終は9時過ぎ。どう考えても会えそうもない。
昔からそういう奴だった。夜中の12時過ぎに「今から吉祥寺で飲もう」と電話がかかってきたり、大阪に行ってからは週末を利用してうちに遊びに来て、月曜の朝に「また今度」と別れて、夜家に帰ってくると別の友達つれてきて飲んでいて、結局次の週末まで私の家に居ついたりしてた。
私が大阪に取材に行ったりしていた時に会ったきりなので、もう4年くらい会っていないのかな。電話でお互いにまた東京に来たときに、大阪に行ったときに会おう、と話す。

ところでこの「月曜の朝、金曜の夜」は月曜日の朝の通勤電車の人々を綴った「月曜日の朝」と、金曜日の夜の飲み屋のあれこれを書いた「金曜日の夜」を文庫化にあたってまとめたもの。
私は電車の中では本を読んでいるか、寝ているかのどちらかなのだけれど、毎朝まわりを見渡しながら電車に乗っているといろいろな人がいておもしろいんだろうなぁ、と思ったりもするが、電車は私の貴重な読書時間なのでそういうわけにもいきません。

「ku:nel」(Vol.7/2004.5.1)

暖かかったり、寒かったり・・・・春はまだ遠いのかな。
今日は朝から雨降りで、そして寒い。

3月に入ってまた一人で昼ご飯を食べに行くようになって、読書の時間が増えたのはいいけど、考えなくちゃいけないことが多すぎて頭の中がごちゃごちゃで、昼ご飯の時間でも電車の中でも文字が頭に全然入りません。
毎日、朝気持ちよく起きて朝ご飯をおいしく食べられて会社に行って、仲間と話したり仕事したりごはんを食べに行ったり、本を読んだり、音楽を聴いたり、週末の予定をたてたり・・・・それで普通に「おやすみなさい」って言えればそれでいいのにね。って思う。それだけなんだけどなぁ。

頭の中ではずっと小沢健二の「春にして君を想う」が鳴り響いてます。あのとき僕はどんな気持ちでどんな風に春を迎えていたのだろう?

「花十日」-永井龍男-

私が週に一回は行く荻窪にある古本屋さんには永井龍男の本がたくさんあって、どれも1冊500円くらいで売っています。それでここ半年くらい、行くたびに一冊買い、その週にその本を読んで読み終わったらまた行く、ということが続いています。この本のその古本屋さんで買った本。私が買った後もなぜか追加されているけれど、そろそろその店で買う永井龍男の本もなくなってきてしまってさみしいです。

しかもその隣には吉田健一の本が7、8冊必ず並んでいます。「なんていい古本屋さんなんでしょう」と思いつつ、とりあえず「交友録」を手に取ってみると800円。「英国に就いて」もそれほど高くない。でも随筆じゃなくて一応ストーリーがあるものがいいかな、とその隣の「乞食王子」に手を伸ばすと、「ん、ん!?」 1万5千円!? 周りの本の値段に比べて目を疑う値段になっていて驚いてしまいます。ついでに文庫で持っているのだけれど、今のところ吉田健一の本で一番気に入っている本なので箱入り単行本で持っているのもいいなと軽い気持ちで「東京の昔」を手に取ってみると、「1万円」の文字が。おぉ!
ほかの作家もチェックしたところ、安いものは安いのですがその横に普通に1万の本が置いてあります。素人にはぜんぜん値段の付け方が分かりません。

こうなってくると、もしや?と手に持っていた永井龍男の本の値段をもう一度見てみますが、やっぱり500円です。でも、もしかしてレジに持っていったときに店員さんに「お会計10300円です」なんていわれるんじゃないかと、ついその後何度も値段をチェックしてしまうのです。
もうこの店に通い始めて半年以上経つというのにね。

「お天気歳時記」-大野義輝、平塚和夫-

永井龍男の本を読んでいると、「歳時記を紐解いてみると・・・・」とさまざまな歳時記から引用されていることが多い。そのせいかこのところ“歳時記”を読んでみようかな、という気分になってしまってます。いまのことろ私の持っている歳時記といえば池波正太郎の「味と映画の歳時記」や山口瞳の「私本歳時記」、獅子文六の「食味歳時記」のくらいで純粋な歳時記とはちょっと言えないかもしれないけれど、そういう本も含めてちょっと歳時記に凝ってみようと思ってます。
それとは直接関係ありませんが、そういえば小学生の頃、図書館にあった県ごとに出ている「子供風土記」を北海道から読んでいったな、なんてことを思い出しました。

この「お天気歳時記」は一年365日、それぞれの日に関係のある天気のことや季節のことが書かれていて、1月1日から読み始めてもいいし、とりあえず今日を起点に前後一週間とか、あるいは自分の誕生日から・・・・なんて具合に毎日少しずつ読んでるので、実際にどこを読んだのか、そしてまだ読んでないのか分からなくなってしまっているけれど、とりあえずすぐに手に取れるような場所に置いておいて、気が向いたときにぱらぱらとページをめくっていくつもりです。

「くちぶえサンドウィッチ」-松浦弥太郎-

松浦弥太郎の最新刊(と言ってもけっこう前?)。もしかしたら単なる私の期待なのかもしれませんが、松浦弥太郎は書き手として過渡期に来ているのかな、と思いながら読みました。
松浦弥太郎の良さというのは、コップの中に入っているのが濁った泥水であるということを分かっているうえで、あえて上の方の澄んだ水に心を向けているところだと私は思っていて、さらにいうならば、その澄んだ水の部分を強く信じて、そして大切にすることで、下の部分の濁った水さえも浄化することができると彼が信じて毎日を過ごし、文章を書きところなんじゃないかな。適当。
これから彼がどんな文章を書いていくようになるのか私にはもちろん分からないし、そもそも私が彼の本をずっと追い続けるかどうかもわかりませんが、どこかで松浦弥太郎の文章や彼のことについて書かれた文章を見かけるたびに気になってしまうんだろうなぁとは思います。(無責任ですみません)

昨日は用事があったので6時ぴったりに会社を出て恵比寿へ。一時間ぐらいで用事を済ませたあと、マックでごはんを食べました。マックなんて久しぶりだな、なんて思いつつ、席はわりと空いていたのですが、とりあえず荷物がじゃまなので隅の席に鞄をおいておいて、財布だけ持って注文しに行って、しばらく並んだあとにトレイを持って席に戻ると、その席に座ってたばこをすっている人がいます。
私はあれ~と思いつつ違う席に座ったのですが、最近ファーストフードやセルフサービスのカフェに行くとこういうことが多いような気がします。鞄だけじゃなくてコートも置いているのに誰か座ってます。しかもほかの席が全部埋まっているというわけでもないのがなんか不思議です。
ここで「そこわたしが取ってた席なんですけど・・・・」と言えばいいのでしょうか。でもほかの席も空いてるしなんだかそう言うのも嫌な感じ。そもそも注文する前に鞄とかを置いて席を取るという行為がある意味“せこい”行為なのだろうか?昔、わたしがミスタードーナッツでバイトしてたときは「席は取ってありますか?」ってお客さんに聞いてたけどな。う~ん。

「マドンナの引っ越し」-池内紀-

神保町に行こうなんて思ったのは、きっと一昨日の夜、「東京喫茶店案内」をパラパラとめくっていたせい。。長引いた打ち合わせが終わって大手町から丸の内線に乗ったのはもう8時半も過ぎで、荻窪に着いたのは9時過ぎ。永井龍男の本をお目当てにささま書店に行くもすでに閉店していて、しかたなくPCの入った思い鞄を片手にと西荻から家までぼとぼと歩いていると、ふと「明日は神保町に行こう」と思い浮かんだのです。

土曜の朝はなぜかきちんと9時に起きれるのはなぜかな。今日も9時に起きて洗濯や掃除など家のことをささっとして、昼前に家を出て、渋谷から半蔵門線に乗ってさぁ買ったばかりのC35を片手に神保町へ。
まぁ歩くコースはたいてい決まっていてそれを一軒一軒のぞいていくだけなのですが、今日はいつも必ず休憩するリオがお休みだったのでお昼ごはんを食べるタイミングを逃してしまい、なかなかどこにも入れずお茶の水駅はもうすぐそこ、なんてことになってしまいました。しょうがないのでミスタードーナッツでちょっと休憩。
その後、新宿に出てちょっと買い物、そのまま昨日行きそびれた荻窪のささま書店、そして最終的に吉祥寺に出て、荷物は重くなるしちょっとぐったり気味です。

ささま書店では2年ぶりぐらい会ってない我々というバンドヴォーカルをやっているコマツ君に偶然会いびっくり。前は下北に住んでいたのだけれど、今は阿佐ヶ谷に住んでいるんだとか。でもなぜ荻窪の古本屋でと、お互いに思ったのではないかな。たまにはライブ行くからね。でも高円寺・無力無善寺はねぇ・・・・。

「東京喫茶店案内―ぼくの伯父さんのガイドブック」-沼田元氣-

2月に会社を辞めた人と去年会社を辞めた人と一緒にごはんを食べようということになって渋谷のフライングブックスで待ち合わせをすることになりました。
フライングブックスは週に一度は会社帰りに寄ってしまう古本屋なのだけれど、カウンターしかないからひとりではちょっと居づらい感じがしてカフェのほうをを利用したことはありませんでした。だから一度、待ち合わせの場所にしてひとり早めに来てゆっくりコーヒーを飲んだり本を読んだりしようと思ってたのです。

それなのになぜかこういう日に限ってすぐに会社を出ることができなくて、フライングブックスに着いたのは待ち合わせの時間10分前。ひとりはもう来ていて腕にはすでに買った本を抱えていました。で、「下でもう一冊買っちゃったんだけど、ギャップ出版の本がたくさんあって迷ってる」なんて言って、隅のコーナーを指さています。僕はそれをちょっと眺めて、このあいだ「横浜おでかけガイドブック」を買ったし、ミオ犬も「旅する女の憩」をプレゼントされていたし、なんだか沼田元氣づいてるなぁと思いながらとりあえずこの本を買うことに。ふと見ると先に来ていた人も同じものを買っていました。