「自分で仕立てる本」-文化出版局編集部-

一時期、吉祥寺のユザワヤで画用紙と厚紙、布を買ってきて、気に入った写真を使って豆本を作るのに凝っていたことがあって、定期的に写真集を作っては、イベントやPickwickWebで売ってみたり、友達の誕生日のプレゼントに添えたりしてました。ちょうど武井武雄の「本とその周辺」を読んだ頃だったと思う。武井武雄のように外側を革張りにしたり、木工細工にしたりなんてことはもちろんできないし、本の作り方なんてぜんぜん知らなかったので、はじめはほんと適当に作ってましたね。でもその頃作ったものの方が丁寧だったりするんですけどね。
最近はぜんぜんそんな時間もとれなくて、昨年、カヌー犬ブックスの一周年記念プレゼント用に作った写真集も、当選分だけ作ってやめてしまったので、自分の分さえないという有様。北欧の写真だったしちょっともったいないな、と思ってはいるのですが。

さて、月曜日にHEAL NIIGATAというイベントに行って来ました。これはFUJI ROCKを主催しているところが中心となって開催した新潟中越地震のチャリティコンサートなのだけれど、いくつかのライブハウスで行っており、私がいったのはZEPP東京。無戒秀徳や横山健、ハナレグミ、忌野清志郎、eastern youth、JUDEといった人たちが出演しました。
もちろん私の目当てはハナレグミ、でも一番の収穫は、おそらくこれからずっと見ることのできないだろう横山健かもしれない。CDだとちょっとおとなしくなってしまっているけれど、ハードな、そしてメタルな(?)ライブのほうがぜんぜんいい。ダイブでめちゃくちゃになっていた前の方には、もちろん行けませんが・・・・。無戒秀徳、ハナレグミ、忌野清志郎の3人は弾き語りだったのですが、どれもそれぞれ自分の持ち味を出した演奏で、さすがプロという感じ。個人的にはハナレグミには「上を向いて歩こう」ではなく「夢で会いましょう」を歌って欲しかった。あと、清志郎が相変わらず「愛と平和」とか叫んだり、「イマジン」のカバーをやったり、「デイ・ドリーム・ビリーヴァー」を観客に歌わせたりしているのにはちょっと閉口。でも帰り際に若者がフロアに座ってビールの見ながら、「ライブでみんなで歌うのってなかなかないけどいいよね」と言っていたので、これでいいのか?(どっちが?)この中に「たまらん坂」を知っていた人は何人いただろうか?

ついでに書くと、この間夜、パンク/ハードコア系の音楽を紹介する番組を見ていたら、デモテープを募集しているコーナーがあって、審査員らしきどっかのバンドのメンバーがそのデモテープを聴きつつ、「これキャッチーでいいね。CMとかに使えるよ」とうれしそうに言っていたのにはびっくり。パンクも遠い昔のことになってしまったのねぇ、って、私は、パンクなんてそれほど聴いてませんでしたけどね。

「引潮」-庄野潤三-

「これは瀬戸内の島を生れ在所として七十年あまりの年月を、大工の道具、鼻に汗をかく牛、寝たふりをする狸、帆船の航海の苦労、高等科で習ったローマ字、製図の文鎮、台湾の子供たちのくれた旗、めばると海鼠、婚礼の歌、木で作った金庫、白狐を捕らえた木挽の友達、だいがら臼、輸送船の中で見た鱶、フィリピンの水田の印象、虫送り、苗床の泥を取りに来る燕、おじいさんの湯呑・・・・とともに生きて来た倉本平吉さんの物語である。」(あとがきより)

広島から汽車とバスと連絡船を乗り継いで行ったところにある棚井津という部落に住む倉本さんのところに庄野潤三が訪ね、上記のあとがきにあるような倉本さんの人生におけるエピソードを聞いていくというスタイルの作品で、ほぼ全編、倉本さんの方言をそのままにした語りによって進んでいきます。小説としてよりも明治・大正・昭和を生きたひとりの人生を残しておくべきだという思いによって書かれたのだろう。方言を含めて同じようなエピソードが何回も出てきたり、時には話がとんでしまったりするし、文章による説明は必要最低限におさえられているので、じっくりと読まないと話の内容が分からなかったりする。しかし、それは倉本さんの話をじっくり聞くことが大事だったからで、それを読む方も流して読んだりするべきではないということなのだ。ということを思いつつ読んでいたのだけれど、実際文章や内容を含めて読みにくいことは読みにくいかもしれない。

話は変わりますが、年末にスーザン・ソンタグは亡くなったんですね。先日、友達と飲んでいて初めて聞いて、ちょっと検索してみたのですが、死因は急性骨髄性白血病、71歳ということ。最近でも、テロ以降でも「テロよりもアメリカの方が卑劣」みたいなことを発言したりしてたのに。実際、テロについては、ほとんどの作家・批評家が沈黙してしまっていたので、スーザン・ソンタグの発言は際だってしたような気がする。なんてことを書きつつ本の方は読んでなかったので知らなかったけれど、その9・11に関することをまとめた「この時代に想う/テロへの眼差し」は、アメリカでは出版されずに日本のみの発売。うちにあった「写真論」や「ラディカルな意志のスタイル」、「土星の徴しの下に」・・・・といった本が、もう手元にないので、読み返すということはできないけれど、この「この時代に想う/テロへの眼差し」は、これを機に読んでみるのもいいかもしれない。

「壺のある風景」-青柳瑞穂-

青柳瑞穂の本は、翻訳ならモーパッサンやアベ・プレヴォー、ボーヴォワール、アポリネールなど手に入りやすいようし、著作も「骨董のある風景」や「ささやかな日本発掘」が簡単に手にはいる。でも骨董についての本は、青山二郎にしろ、白州正子にしろ、なんとなく敷居が高いような気がしてなかなか手が出ないんですよね。読んでみるとそれほどマニアックな記述が続いているわけではないのだけれど・・・・。

年末にテレビを買い換えてDVDのプレーヤーを買ったので、ここのところ毎週のようにTSUTAYAやドラマでDVDを借りてきて見ている。今週は「リトルヴォイス」と「クリクリのいた夏」。私は「24アワーズ・パーティ・ピープル」とか「ブラス」とかイギリス映画ばっかり見てます。ケン・ローチとかもまた見たい。でも11時過ぎに会社から帰ってきて1時前には寝てしまう私には一週間に夜2本見るのはちょっと難しい。そんな中でも今年は、時間をうまく作ってDVDでもいいから映画をたくさん見たいと思う。ホントはフィルムセンターとかラピュタ、三百人劇場で昔の日本映画を観たり、早稲田松竹やギンレイホール、文芸坐で2本立てとか見て、その後早稲田の古本屋を回ったりしたい。

「おしまいのページで」-文藝春秋 編-

意図していたわけではなく、この時期に偶然に手に入れただけに過ぎないのだけれど、今年最後の雑記が雑誌「オール読物」の最後のページに数人の作家によって連載されていた随筆をまとめた「おしまいのページで」で終わるのはなんだかいい感じのようなような気がする。解説に書いてあるように「『オール読物』に『おしまいのページで』があるせいで、『オール読物』は一段と品がよくなった」と書かれているように、この雑記もちょっとは品が良くなるなったりしないだろうか。
収録されている作家は、獅子文六、丸谷才一、永井龍男、吉行淳之介、開高健、井伏鱒二、尾崎一雄、山口瞳、安岡章太郎、立原正秋、水上勉、小沼丹・・・・などなど。なんて豪華なメンバーが毎回、ちょっとした毎日の中での体験や考えたこと、思ったことを書いている。一つ一つはそれほど長くはないので物足りない気もするけれど、その中できちんとまとめられていてどれもうまい。随筆というのはこういうものだという見本のような本といえるのではないだろうか。

さて先に書いたようにおそらくこれで今年の雑記もおしまい。というわけで、今年読んだ本をちょっと総括しておきます。まず、ここで取り上げた本は全部で159冊。雑誌や写真集、絵本なども混ざっているので、だいたい3~4日で1冊の本を読んでいる計算になるかな。これが多いのか普通のなのか分かりませんが、自分の生活を考えるとこのくらいかな、と思う。
作家別に言うと山口瞳が18冊、永井龍男が15冊、井伏鱒二が10冊、吉田健一が8冊、片岡義男が7冊、といったところが多い。山口瞳と永井龍男、井伏鱒二の3人で、43冊、約1/3というのも偏ってますね。木山捷平や上林暁、小沼丹、獅子文六、外村繁などはもっと読みたかったけれど、数的に少ないのは簡単に手にはいるわけではないから。自分では庄野潤三はもっと読んでいるような気がしたけれど、4冊だけというのはちょっと意外。絵本や写真集、デザイン関係の本もほとんど買っていないので、来年はもう少し買いたいですね。

「銀座十二章」-池田弥三郎-

銀座で三代続いた天ぷら屋「天金」に生まれた著者が、自分の経験を元に銀座の街の変遷をつづった本。年末になると銀座や浅草の昔のことが書いてある本を読みたくなってしまうのはなぜだろう。でも正直言うとこういう本を読んでいても地理的な関係あんまり分からなかったりします。特に地名は今の呼び方とぜんぜん違ったり、途中で変わったりするので、ちゃんと地図を見ながら読んでいないと、「それってどこの角??」といった疑問でいっぱいになってしまう。
私が一番長く住んでいたのは小学校から大学の時まで住んでいた二宮で、そのあとは今住んでいる井の頭沿線に7年くらいなので、こんな風に変わっていく街並みについて書くことはできませんね二宮も子供の頃から比べれば家も増えてずいぶん変わったけれど、それほど思い入れもないしね。

週末は友達とクリスマスパーティをした。そういうのは久しぶりですね。友達に12月24日生まれの人がいて、その誕生会と兼ねて昔はよく集まったのですが、うるさくて隣の人に怒鳴られて近くのファミレスに逃げ込んだり、壁を叩かれたり、いろいろあったけれど、今の家は上は外国人だし(よく何人か集まってベランダで騒いだりしてる)、隣は空き部屋だし気兼ねするものはなし。といってももう大人なのでそんなに騒ぐこともないんですが・・・・。気合い入れて部屋の飾り付けをして、ミオ犬がケーキや料理を作って、何年かぶりに三角帽子を出してみんなでかぶって、プレゼント交換して(300円以内!)・・・・と、なんだかほんとにクリスマスらしい感じの週末を過ごしました。

「新版 大東京案内(上)」-今和次郎-

気がつけば歩いていると誰も彼もがサンタの格好をしているのでは、と思うくらい、吉祥寺だけでなく富士見ヶ丘駅前の通りをサンタの格好をした女の子が走ってます。セブンイレブンか牛角の店員だと推測されるのだけれど、コンビニでわざわざ店員がサンタの格好をしなくてもいいのでは。そもそも日本でサンタの格好をしていいのはパラダイス山元だけです。

11月の終わりから仕事が忙しいせいでなかなか古本屋にもレコード屋に行けなかった。しょうがないので会社の近くの本屋さんに行ってみたりしているのだけれど、「本って新品を買うと高いなぁ」と思ってしまう。普通の文庫本で500円以上するのを見ると、500円あれば永井龍男や庄野潤三の単行本が買えるよ、と。そんなことを言ってみても始まらないわけなんですけどね。
この本は、関東大震災の破壊から復興し、モダンボーイ、モダンガールが闊歩する昭和初期の東京の生活と風俗を、官衙、マスコミ、銀行、デパート、刑務所、病院、銀座、浅草、神楽坂、新宿、上野、劇場、映画館、寄席、カフェー、ダンスホール、名所旧跡、年中行事、新名所、縁日、夜店、味覚・・・・など、具体的な項目を挙げつつ記述・記録している。あまり私見を交えていないところがいい。作家や評論家が東京のことを書くとたいてい昔は良かったということに終始してしまい、読み終わった後どうもすっきりした気分になれなくなってします。どうやら人間は得たものよりも失ったものに固執するものらしい、なんてことを思ったりして。

「わが女房教育」-永井龍男-

なんだか仰々しいタイトルではありますが、内容は、結婚6年目の永井龍男が「今日こんな人を見たよ、でも君にはそんな風になって欲しくないね」とか「たまには君も気分を変えてみるのももいいよ」という、妻への手紙、といった趣の短い文章を集めたもの。文体もいつもの永井龍男をちょっと違っていて個人的にはちょっと違和感があるような気もしないでもない。でも考え方を変えれば、「暮しの手帖」の片隅に連載されたもの、と言われても信じてしまうかもしれない、と言えるかも。この文章だったら花森安治のイラストが似合いそうだし・・・・。いや、ただの思いつきですが。

今年の5月に引っ越して、家にあふれていたおもちゃやレコード、CDの類を処分したせいか、それから物欲がほとんどなくなってしまった感じ。一応おもちゃもスマーフとフレッドくんは残してるし、スノードームやフローティングペンはそのままなのだが、あんまり気を入れて探したりしているわけでもなく、実際ほとんど増えてない。レコードも気がつけば12月に入ってから1枚も買ってない。洋服も今年はピーコートを、と思っていたのだけれど、相変わらずミオ犬のお下がりを着ていたりする。しかしとはいうものの本だけはなぜかよく読んでるのは、古本屋にだけは必要に迫られてまめに通ってるからか。そういうのもどうかと思ってるんだけどね。

「井伏鱒二文集3 釣りの楽しみ」-井伏鱒二-

いくら釣りに興味がない人にもおもしろく書かれているといっても、この厚さで全部釣りの話というのはちょっと食傷気味になってしまう(文字は大きいが)。ましてや岩波から出ている「川釣り」と同じ話も多く収録されてるし・・・・。個人的には半分くらいにして「釣りの楽しみ&●●●●」みたいに2つのテーマでまとめて欲しい気がしますね。「釣りの楽しみ、将棋の楽しみ」とかね。井伏鱒二の将棋についてや対戦した人についての随筆がまとまっていたらちょっとおもしろそうだと思うのですが、どうでしょうか。

田町の駅を出て会社に向かう途中にコージーコーナーがあって、朝、晩通るたびに達郎の「クリスマスイブ」が流れている。しかも英語版。この曲だけ一日中リピートしているのか、私が通るとき、たまたまいつも「クリスマスイブ」になっているのか、わからないけれど、なんだか西武優勝セール中の西友みたいだな、と思う。
私は人に「どんな音楽が好きか」と聴かれたときは、とりあえず「大滝詠一と山下達郎、細野春臣」と答えているのだけれど、3人のアルバムを全部持っているわけではなく、「シーズンズ・グリーティングス」も持っていないアルバムの一枚。一応毎年12月になると「今年こそは買おうかな」と思うのだけれど、気がつくとクリスマスは過ぎてしまい、買いそびれてしまう。発表されたのが1993年なので、もう10年以上も買いそびれてるわけですね。というか10年買いそびれてるんだったら、そもそも欲しくないんじゃないの、という気もしますが・・・・。いや、いいわけをさせてもらうなら、「シーズンズ・グリーティングス」を聴こうと思うのは、季節がら12月だけなので、そう考えると1993年から2004年の12月をあわせた12カ月、1年しか経っていないとも言えるわけで。

「京都のこころ A to Z-舞妓さんから喫茶店まで」-木村衣有子-

木村衣有子の「京都カフェ案内」を新幹線の中で眺めながら、京都に着くなり六曜社に行き、まる捨、進々堂、エフィッシュ・・・・などのカフェを回りつつ、京都の町を散歩したり、神戸に出て雑貨屋さんや本屋さんを巡り、南京町を歩いたのは、いつのことか、去年のことか?一昨年のことか?その前にオリーブのカフェグランプリの号を持って、イノダコーヒーやDOJI、オパール、ソワレ・・・・に行ったのは?なんてことを思い出しながら、「今年は引っ越ししたり、転職したりしてどこにもいけなかったな」と年の終わりにこんな本を読みつつ反省してます。

さて、忘年会や送別会、打ち上げと飲む機会の多い12月ですが、昨日は前の会社の人たちと赤坂見附で忘年会。赤坂見附なんて普段行く用事もないので、たまにはちょっと早めに会社を出て東京ランダムウォークかWAVEにでも行ってみようと思っていたのに、夜から打ち合わせが入り会社を出たのは10時過ぎ。今週は忙しい。あわてて見附に行って合流。なんだか年末、週末の見附の居酒屋はバカ騒ぎの人たちですごいことになってます。店の中で通路に座り込んで飲んでるし、向こうでは服脱いでる人がいるし、ケンカは始まるし・・・・。
忘年会のほうは11時半過ぎに解散したのですが、遅くから飲み始めたこともあって、もの足りずに荻窪在住の友達と荻窪に移動して、閉店の3時まで居酒屋で飲む。0時過ぎの荻窪の居酒屋はさすがに空いていて、平和だ。でもなんだか30過ぎた男が居酒屋で3時過ぎにまで飲んでるのはなんだかね、という話になる。別に食べたいわけではないしさ。というわけで、荻窪でちょっとしたものをつまみながら静かにビールかウィスキーを飲める小さめのバーを本気で探そうと。

「雑文集 夕ごころ」-永井龍男-

「3ガ日の、雪の降るような冷え込む夜には、随分遠くから横須賀線の踏切の警鐘が聞こえてくる。ああ、あそこの踏切だろうと思うと、闇の中に真っ直ぐ線路が見えてくる。どこかへ出かけるつもりになれば、まだどこへだって行けるのだなと思ったりすることもある」

という表題の中に出てくる文章がいい。
永井龍男、77歳の随筆集。77歳の言葉だけに実感が伝わってきます。内容としては、ほかの雑文集と同じように、鎌倉で暮らす自身の身辺や昔からの交友関係を綴ったものや、菊池寛についてなどについて書かれた文章が収録されています。なかでも東京の魚河岸に関する歴史について書かれた「魚河岸春夏秋冬」は、ページ数も多くまとまっていて読み応えがあります。でも個人的にはやはり「吉田健一君のこと」が引っかかってしまうわけなんですが・・・・。(目次にこのタイトルを発見して思わず購入してしまった)

永井龍男は、作家として独立したのが遅かったせいなのか、若いときに代表作というものを出さなかったせいなのか、昔の友人たちやよく通った飲み屋などが書かれている雑文集でも、それほど隠居生活という感じが強くないと思う。これが尾崎一雄とかだったら曽我の隠居生活雑記だったりするし、里見弴だったら鎌倉、あるいは軽井沢の隠居生活雑記のように感じられてしまう。というのは、単に私の認識や印象などの問題なのだろうか。
雑文として読みやすい、ある種軽やか文章で書かれているにもかかわらず、書くことに対する真剣さ、妥協のなさが伝わってくるからなのではないかと勝手に考えたりして、そして、この辺のストイックさが山口瞳に恐れられていたところではなかったか、なんてまた妄想だけが一人歩きをし始めてしまったりして・・・・。