特に理由もなく最近、この秋山安三郎や安藤鶴夫、戸板康二といった人が気になっている。でも、歌舞伎や芝居に興味がなく、実際に見たこともなく、それについての知識もまったくないので、どうしたものか、と。やはりこの本でも歌舞伎や芝居のことになると雰囲気はなんとなく分かるものの、役者の名前や芝居の題名(もしくは内容)などはちんぷんかんぷん。でも昔は落語にしろ芝居にしろ、ひとつの題名をあげるだけでその内容やそこから導き出される教訓めいたもの、あるいは登場人物たちの性格など・・・・、世代を越えて老若男女分かり合える共通認識があったんだろうと思う。
なので、私にとっては、そういう意味ではまったく理解できないわけなのだが、昔の東京やそこに住んでいる人たちの様子を味わうという意味ではおもしろい。いや、おそらくほんとうはそれさえも私にはちゃんと伝わってないんじゃないかと思うけどね。
日曜日、なんだかひさしぶりのお休みな気がするのだけれど、昼過ぎまで寝てしまい、いろいろやっているうちに、気がつけば夕方の5時前という・・・・。とりあえず郵便局でお金をおろして吉祥寺行き、KuuKuuの後にできた韓国百菜食堂 みな季へ。KuuKuuの雰囲気を微かに残しているけれど、すっきりときれいになった店内を眺め回したりして、つい「あそこにはクッキーが置いてあって・・・・」とか「カウンターがすっきりしてしまった」とか「ピアノが移動してる」など、KuuKuuの影を見つけてしまう。でも料理自体は、それほど「韓国!」という感じではなく食べやすく、特にチヂミと水餃子がおいしかった。最近はほんとサンドウィッチと菓子パン、クッキーしか食べてないんで、食べられるときはおいしいものを食べたいと思う。
といいつつ、その後、ミスタードーナッツなんか行ってしまって、寝る前までお腹が苦しいということになるはめに!みな季はデザートがアイスかシャーベットしかないのが個人的には・・・・ですね。
いつか春が来る前に読もうと思っていた雪沼近辺に住む人々を描いた短編集。
このところ会社の行き帰りにちょっと厚い単行本を読んでいるので、混み合っている通勤電車の中で片手はつり革につかまってもう片方の手で本を持って読んでいると、たった20分くらいのことなのに腕が痛くなったりしてしまう。単に私の筋力がないだけなんですけどね。でも週末くらいは荷物を軽くしたいし、歩き回ってもじゃまにならないような本が読みたいし、そもそもそれが長編ではなくて随筆をまとめたものなので、いくら好きな作家のものといえども気分的に中だるみしてきたので、ときどき違う本を間にはさむようにした。前にも書いたけれど、今、私の本棚には読んでいない本が意外とあるし。
先週見に行った「河野鷹思グラフィック・デザイン」展の図版。私は、夕方、閉館ギリギリの時間に見に行って、しかもそのまま併設のカフェでお茶をしてしまったため、カフェから出たときはすでに、美術館もミュージアムショップも閉まっていて、買うことができなかったので、そのあとに見に行った友達に買ってきてもらったのです。
先日、ミオ犬が買ってきた「スマイル・フード」と、この本を寝る前にかわりばんこに眺めていたら、久しぶりに料理でもしたいなぁ、なんて気分になってしまった。なにげにソファーの前の机の下には、高山なおみのレシピ本が置いてあったりするし・・・・。
昭和35年から日経新聞に230回にわたって連載された新聞小説。なにか起こりそうな、そして秘密がありそうな感じをかもし出しつつ、でも最終的に劇的なクライマックスを迎えるわけではないというのが、永井龍男らしい。新聞連載の大衆小説なのでそれほど気合いを入れて書いているように思えないし、実際、割と気楽に連載していたのだろう、なんて言ったら失礼か。
このアイコン・シリーズは、有名な写真家からビザールなもの、レトロなもの・・・・など、たくさん出ていて、中には「トラベル広告」や「アメリカン・アドバタイジング60s」など、ちょっとひかれるものもあるにはある。でも、すぐに折れそうなソフトカバーの感じ気になったり、本のサイズが物足りなかったりしてどうも買う気にはなれない。ときどき洋書バーゲンなどでまとまって売られていたりするけれど、そういうときに限って気になるタイトルがなかったりする。逆にこの「クレイジー・キッズ・フード!」は、その本自体の安っぽさが内容と合っている気がする、というのは私の単なる“気持ち”だけかな。
1月のはじめにユトレヒトでやっていた「ホンマタカシ写真集『アムール 翠れん』発刊記念 ロシアの旅の写真展」を見に行った時に予約した本が、入荷されたという知らせが来たので、土曜日に取りに行った。とりあえず中目黒で降りて、雑貨屋などを見て回ってオーガニックカフェでランチ。去年の夏前くらいに「オーガニックカフェのある一帯が再開発されるので年内に閉店するらしい」ということを聞いていたので、すっかりもう閉店しているのかと思っていました。いまではそんなにしょっちゅう行けないけれど、昔は一週間に2、3度は通っていたこともあり、いつまでも残っていて欲しい。
こう言ってはなんだけれど、阿佐ヶ谷文士、鎌倉文士、私小説家という偏った本ばかり読んでいるせいで、この上林暁や木山捷平、外村繁、尾崎一雄・・・・など、それぞれの作品の内容や経歴がごちゃごちゃになってしまい、本を読んでいると、「この時期に大きな病気になったのは●●●じゃなかったっけ」とか「この人は一度小説家になることをあきらめたんじゃなかったっけ」などと思ったりする。特に私小説は自分の経験を元に作品を書いているので、そもそも作品の内容が、そのままその作家の経歴や私生活・日常とものすごく近い。そして近くに住んでいたり、一緒に飲みに行ったりと交流が多いので、当然、ある作家のことが、違う作家の、しかも複数の作家の作品に、違う視点から出てきたりして、読む方は余計混乱する。それも読み続けていればいずれ把握できるようになるのだろうか。逆に、そういったものをごちゃまぜにしたまま、架空のひとりの作家としてとらえてみるのもおもしろいかもしれない、などど勝手なことを考えたりしている。
去年、新潮社の「第三回女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞ダブル受賞した吉川トリコの初めての単行本。ここに出てくる本の中ではかなり異色かもしれない。これで函入り背表紙茶色の本が並ぶ私の本棚もガーリーに!なんて、借りた本なんですけどね。なんだかものすごく日常的なことのような気もするし、日常的からかけ離れた物語のような気もするし・・・・普段、偏った読書ばかりでこういう女の子っぽい本はもちろん、現役の作家の本さえもほとんど読まない私としては、ちょっと新鮮なんだけれど、なんとなく「?」な気分にもなったりするわけで、多分、20代の女の子が山口瞳や吉田健一を読んだら、こんな気持ちになるんじゃないだろうか、などと思ったりもします(逆の意味でだけれど)。いや適当です。