「雪沼とその周辺」-堀江敏幸-

いつか春が来る前に読もうと思っていた雪沼近辺に住む人々を描いた短編集。
それぞれに直接的なつながりはないけれど、ふと話の中に出てきたりとかすかにつながっている。映像にしたら通行人として見かけることだろう。出てくる人たちはたいてい人生の夕暮れを迎えた人、もしくは迎えようとしてる人たち、そして彼らがこだわり続けてきた、今の世の中では忘れら去られてしまいそうなものたち、ボーリンク場の古い機械、町レコード店、製函工場、書道教室、定食屋・・・・。彼らは、長いときが経って、これまで自分のこだわっていたことや自分の人生を振り返ってみたりする。しかしだからといって後悔に襲われたり、「いい人生だった」なんて歓喜にあふれることはなく、ただ思い出しているだけで、それがまるで雪が降っているかのようにとても静かで美しい。おそらく人生の多くを占めていたであろう、そのこだわりについても淡々としていて、執着や情熱というものは感じられない。なんて書くと寂しいストーリーのような気もしてくるけど、そういう感じをほとんど受けないのは、堀江敏幸の文章のうまさなのかもしれない。
初めて読んだと言うこともあって、いままで堀江敏幸の本の中では「郊外へ」が一番好きだったけれど、この本が一番好きかもしれない。(といっても全部読んでいるわけではないし、「郊外へ」と「雪沼とその周辺」では、作品のタイプがぜんぜん違うんだけどね)

なにやら忙しく3連休も2日は会社に出ていたり、夜も終電では間に合わずタクシーで帰ってきたりしている。でも休んだ一日は、平野恵理子の個展に行って来ました。「平野恵理子の個展に行って来た」なんて書くのは何度目か、ここ数年は和もののテーマが多かったのだが、今回は「スーパーマーケット、いらっしゃいませ」というだけに、はがきが届いたときから期待してました。やはりなんでもない「もの」や「商品」描いたらうまい。このテーマで一冊本が出ないかなぁと思ってしまう。ただ、ほとんどが同じフレームでひとつの題材を描いていたのがちょっと残念だった。もちろん帰りには移転してから初めて紀伊国屋に行ってみました。なんだか三浦屋みたいになっていたので、がっかり。じゃ、前の紀伊国屋と三浦屋の違いはなんなんだ?といわれると困るけど。

「火事息子」-久保田万太郎-

このところ会社の行き帰りにちょっと厚い単行本を読んでいるので、混み合っている通勤電車の中で片手はつり革につかまってもう片方の手で本を持って読んでいると、たった20分くらいのことなのに腕が痛くなったりしてしまう。単に私の筋力がないだけなんですけどね。でも週末くらいは荷物を軽くしたいし、歩き回ってもじゃまにならないような本が読みたいし、そもそもそれが長編ではなくて随筆をまとめたものなので、いくら好きな作家のものといえども気分的に中だるみしてきたので、ときどき違う本を間にはさむようにした。前にも書いたけれど、今、私の本棚には読んでいない本が意外とあるし。
これは、前に読んだ「ペケさらんぱん」と一緒にネットで頼んだ本。もう一冊、今日出海の本も注文したのですが、こちらはまだ未読。週末はもちろん、会社から早く帰ったときなど、こんなに古本屋さんに行っててもなかなか出会えない本というのはあるもので、まだまだ修行足りないということでしょうか。なんの修行かわかりませんが・・・・。

さて、万太郎の幼馴染み、鰻屋「重箱」の主人をモデルにしたこの作品、主人公がこれまでの生涯やお店の変遷、東京の変化などについて語っていくという形式なのですが、語り口のテンポがよく、なんだか落語を聞いているような、あるいは久保田万太郎本人に話を聞いている気分になります。借金を抱えても、地震で家が壊れても、東京から逃げる羽目になっても・・・・深刻な感じはまったくなく、「ええぃ、しょうがねぇなぁ」ぐらいのいきおいで駆け抜けている感じが爽快。そしてそういう状況に陥った主人公を、昔、父親が主人公に世話になってという理由で、その息子が主人公を助けたりと、いつかの、どこかのつながりで助ける周りの人たちとのやりとりも爽快。

「『河野鷹思グラフィック・デザイン』展 図版」

先週見に行った「河野鷹思グラフィック・デザイン」展の図版。私は、夕方、閉館ギリギリの時間に見に行って、しかもそのまま併設のカフェでお茶をしてしまったため、カフェから出たときはすでに、美術館もミュージアムショップも閉まっていて、買うことができなかったので、そのあとに見に行った友達に買ってきてもらったのです。
世界のグラフィックデザインシリーズの河野鷹思の本は持っているのだけれど、もう少し大きなサイズで欲しいと思っていたのです。かといって、「青春図會」を買うほど小遣いに余裕はない。でもロゴが反転して印刷されていたり、ちょっと雑な作りかも・・・・。

日曜日は、その友達と、共通の知り合いの結婚祝いを買いに、初めて丸ビルへ。夕方の5時に待ち合わせをしていたので、ちょっと前に行ってひとりで、うろついてみようかな、と。こんな機会ないと絶対丸ビルなんか行かないし・・・・などと、考えてはみるものの、朝から吉祥寺、荻窪、新宿と歩き、午後から少し会社で仕事なんてしていたので、待ち合わせの5時に間に合わず、遅刻、という始末。
おまけにコンランショップとフランフランではめぼしいものが見つからなくて、銀座のWatashi no Heyaに移動。Watashi no Heyaだったら吉祥寺にもいいのでわ、なんて、思ったり、前に同じようなメンバーで、友達の結婚祝いを買いに行った時に全然決まらず、新宿のコンランとフランフランの間を行ったり来たりしたのを思い出したり。今回は自分たちの趣味でファイヤーキングの を買った。使ってくれるかな。どうかな?という感じです。●●くんこの雑記見てないよなぁ。

「ku:nel」(Vol.12/2005.3.1)

先日、ミオ犬が買ってきた「スマイル・フード」と、この本を寝る前にかわりばんこに眺めていたら、久しぶりに料理でもしたいなぁ、なんて気分になってしまった。なにげにソファーの前の机の下には、高山なおみのレシピ本が置いてあったりするし・・・・。
とはいうものの、結婚してから料理なんてときどき焼きそば作るくらいだし、平日はたいてい帰ってくるのが11時くらいなので、夕ご飯を家で食べることもほとんどないわけで、実際、料理なんていつ作るんだ?という感じだったりする。これでもひとり暮らしのときは、煮物とかスープとか、適当に自分で作って食べてたのにね。いや、実はお弁当作って会社に行ったりしてたときもあるですよ。もちろんここに出てきてるような素敵なお弁当ではないけれどね。
今週末も出かける予定があるし、いつのことになるのやら。そういうふうに時間が過ぎていくうちに、料理熱も冷めてしまうのか。どうなるんでしょうかね。

その(どの?)高山なおみの本の題名をもじったような、ハナレグミの「帰ってから、歌いたくなってもい いようにと思ったのだ。」を、先日買ったのだ。最小限の編成で永積タカシのうたというよりも声を、どれだけダイレクトに聴かせるか、というテーマが、前2作でもそうだったけれど、今回はホームレコーディングということで、より際だっているように思えます。ガラス越しに陽の光が差し込む冬の晴れた日の昼間にぴったりの音楽。

「他人の帽子」-永井龍男-

昭和35年から日経新聞に230回にわたって連載された新聞小説。なにか起こりそうな、そして秘密がありそうな感じをかもし出しつつ、でも最終的に劇的なクライマックスを迎えるわけではないというのが、永井龍男らしい。新聞連載の大衆小説なのでそれほど気合いを入れて書いているように思えないし、実際、割と気楽に連載していたのだろう、なんて言ったら失礼か。
でも、おそらく現在の作家でこの感じそのままの小説を書いている人がいたら、私は「退屈」のひと言ですましてしまうだろう、と思う。昔のことだったら許せてしまうというのはなんでかな。ある意味逃げてるとも言えますが・・・・。

この作品は違いますが、永井龍男の作品も「街燈」「明日はどっちだ」「風ふたたび」など、いくつか映画化されているものがあります。原作を読んでいるものがないので、内容は分からないけれど、新聞や週刊誌に連載されたものがほとんどみたいですね。なので、どれも他愛のない物語だろうということは想像つくのだけれど、いつかそれらを見ることができたらと思ってます。そんな機会はくるかどうかは分かりませんが・・・・。それで、去年フィルムセンターで上映されたのに、すっかり気がつかなかった獅子文六原作の映画みたいならないように、フィルムセンターや阿佐ヶ谷ラピュタの上映スケジュールを、気がついたときに必ずチェックするようにしているのですが・・・・。でも、そう思っていると機会はなかなか訪れないもので、忘れたことに上映されたりするんだろうなぁ。

「クレイジー・キッズ・フード!」-スティーブ・ローダン/ダン・グッドセル-

このアイコン・シリーズは、有名な写真家からビザールなもの、レトロなもの・・・・など、たくさん出ていて、中には「トラベル広告」や「アメリカン・アドバタイジング60s」など、ちょっとひかれるものもあるにはある。でも、すぐに折れそうなソフトカバーの感じ気になったり、本のサイズが物足りなかったりしてどうも買う気にはなれない。ときどき洋書バーゲンなどでまとまって売られていたりするけれど、そういうときに限って気になるタイトルがなかったりする。逆にこの「クレイジー・キッズ・フード!」は、その本自体の安っぽさが内容と合っている気がする、というのは私の単なる“気持ち”だけかな。

お菓子のパッケージで使われたキャラクターを集めたこの本を見ていると、お菓子という安価な商品と今から見るとおおざっぱな、荒い印刷がぴったりと合っていて、ものすごくその荒さの隙間から、“夢”や“希望”がわき出てくるような気がする。高画質や精密さを突き詰めていくと、印刷としてはきれいだけれど、もともとお菓子のキャラクターというおおざっぱなものだけに、細かければ細かいほど“あら”が浮き出てしまって、加えて想像力の入り込み余地がなくなってしまって、どこか寂しい、つまらないものになってしまうのだろう。なんてことを、この本をめくっていて考えているわけでもなく、ただ「かわいいな」とか「これコピーしてどっかで使おうかな」なんて思ってたりする。

話は変わりますが、東京国立近代美術館で「河野鷹思のグラフィック・デザイン―都会とユーモア」が2月27日まで開催されている。河野鷹思は、松竹キネマの宣伝ポスターから始まって、雑誌「NIPPON」の制作や、「日宣美(日本宣伝美術会)展」への参加など、戦前から活躍するグラフィックデザイナーで、展覧会では彼が手がけたポスターや雑誌の表紙、挿絵などが展示されてる。で、日本に限らずほかのデザイナーの作品を含めて、見ていていつも思うのだけれど、戦前はデザインというより、イラストに近かったり、印刷というより版画に近いようなものが、戦後、1950年代から1960年にかけて印刷技術が発達するに従って、構成や色づかいがはっきりと洗練される。この変化はどんなデザイナーの作品を見てもすごいなぁ、と思う。

ひとつの技術を使ったものでも、一方では今から見るとその荒さによって商品が引き立ち、一方では前の時代に比べて緻密になったせいで、デザイナーの意識や手法まで影響と与える、それは単に、見方や距離によって感じる印象が違だけかもしれないけれど、なんだか不思議なことのような気がしますね。

「アムール 翠れん」-ホンマタカシ-

1月のはじめにユトレヒトでやっていた「ホンマタカシ写真集『アムール 翠れん』発刊記念 ロシアの旅の写真展」を見に行った時に予約した本が、入荷されたという知らせが来たので、土曜日に取りに行った。とりあえず中目黒で降りて、雑貨屋などを見て回ってオーガニックカフェでランチ。去年の夏前くらいに「オーガニックカフェのある一帯が再開発されるので年内に閉店するらしい」ということを聞いていたので、すっかりもう閉店しているのかと思っていました。いまではそんなにしょっちゅう行けないけれど、昔は一週間に2、3度は通っていたこともあり、いつまでも残っていて欲しい。

写真集の方は、東野翠れんの写真集というよりもやはり、ホンマタカシのロシア写真集、といった感じです。ついでにたまたま去年ロシアに行った友達がいて(この本の撮影と同じ8月!)、その人の写真のスライドショウを年末に見たりしていたので、ページをめくっていると、夏のロシアに行きたい気分がどんどん高まってきます。今年はまたスウェーデンとフィンランドに行こうと思っていたけれど、ロシアもいいな。近いし。もちろん東野翠れんもかわいい。ホンネを言うともう少し彼女の写真があればいいのに。と思っていたら、今度は東野翠れんが撮りためた作品をまとめた写真集「ルミエール」が2月2日に発売されるそう。2月2日って今週じゃないですか。勢いにまかせて買っちゃおうかな。

「白い屋形船・ブロンズの首」-上林暁-

こう言ってはなんだけれど、阿佐ヶ谷文士、鎌倉文士、私小説家という偏った本ばかり読んでいるせいで、この上林暁や木山捷平、外村繁、尾崎一雄・・・・など、それぞれの作品の内容や経歴がごちゃごちゃになってしまい、本を読んでいると、「この時期に大きな病気になったのは●●●じゃなかったっけ」とか「この人は一度小説家になることをあきらめたんじゃなかったっけ」などと思ったりする。特に私小説は自分の経験を元に作品を書いているので、そもそも作品の内容が、そのままその作家の経歴や私生活・日常とものすごく近い。そして近くに住んでいたり、一緒に飲みに行ったりと交流が多いので、当然、ある作家のことが、違う作家の、しかも複数の作家の作品に、違う視点から出てきたりして、読む方は余計混乱する。それも読み続けていればいずれ把握できるようになるのだろうか。逆に、そういったものをごちゃまぜにしたまま、架空のひとりの作家としてとらえてみるのもおもしろいかもしれない、などど勝手なことを考えたりしている。

「しゃぼん」-吉川トリコ-

去年、新潮社の「第三回女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞ダブル受賞した吉川トリコの初めての単行本。ここに出てくる本の中ではかなり異色かもしれない。これで函入り背表紙茶色の本が並ぶ私の本棚もガーリーに!なんて、借りた本なんですけどね。なんだかものすごく日常的なことのような気もするし、日常的からかけ離れた物語のような気もするし・・・・普段、偏った読書ばかりでこういう女の子っぽい本はもちろん、現役の作家の本さえもほとんど読まない私としては、ちょっと新鮮なんだけれど、なんとなく「?」な気分にもなったりするわけで、多分、20代の女の子が山口瞳や吉田健一を読んだら、こんな気持ちになるんじゃないだろうか、などと思ったりもします(逆の意味でだけれど)。いや適当です。

昨日の夜は、前に勤めていた会社で一緒に仕事をしていた人と、大久保にある梁の家という韓国料理のお店に行ってきました。メンバーは4人。大阪の会社に転職していた人がいたりしたので(今は東京勤務)、4人そろうのは何年ぶりか、という感じ。「幸田さん、前に会ったとき禁煙してませんでした?」なんて言われたりして、歳を取ると年月が経つのは早い。ちなみに私が禁煙していたのは、一昨年の冬のことなのだ。
4人とも「辛いのは苦手なんだよね」などと言いながら、辛そうな真っ赤な色をしたスープの鍋を次々と注文し、箸休めでキムチを食べたりして、めちゃくちゃ酒が進んだ。でもどちらかというと飲み過ぎたと言うより食べ過ぎ。もうコーヒーも飲めないな、なんて思いながら荻窪からとぼとぼ歩いて帰ってきました。

「禁酒 禁煙」-山口瞳-

男性自身のシリーズから再編集した本。読んだこともある文章がいくつか出てくるし、統一されたテーマがあるわけではないので、どんな意図で再編集したのか分からないというのが本音。なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまう。

年が明けてから髪を短く切ったせいで、どうも首筋や頭が寒くて、何年かぶりに毛糸の帽子を買った。なんて言うのか正確には分からないけれど、緑が入ったような青色でオレンジの縁、そして小さなつばがついている。今年の冬は、髪を短いままにしてこれをかぶって過ごす予定。昔は、いつも帽子をかぶっていたものだけど、一度かぶらなくなると、家を出るときについ忘れてしまうようになって、そのうち持っていた帽子も、捨ててしまったりフリマで売ってしまった。すでに今日も帽子を家に忘れてきたとことに、家を出てから気がついた。別の意味でそういうのも、なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまうわけで。

今日からミオ犬が友達と一泊二日の日光旅行。で、今日の夜はひとりでのんびり何しようかなぁ、なんて思ってみたりするのだけれど、週の始まり月曜の夜なんて夜遊びにも行けないし、飲みに行く気にもなれないし、実は特にすることもない。別にミオ犬がいたって飲みに行ってるしね。というか、そもそも家に帰ってみるとすでに11時過ぎ。いや、そんなことは最初から分かっているのに、ひとりと思うとなぜかウキウキしてしまうのも、なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまうもののひとつ。