ソール・ライター展とホンマタカシ展

2月の終わりにたまには写真展などに行こうと思って、その時に開催している展覧会と調べてみたら、ソール・ライターやホンマタカシ、マイケル・ケンナ、バリー・マッギー‥‥といった名前が目について、なんだか前に行ったことあるものばかりだな、と思ってしまった。
今の音楽を聴きたいのに、つい手に取ってしまうCDやレコードは昔のものだったり、新しいものでも昔から活動している人のものだったりしてしまうのと、どこか似てる気がする。展覧会の場合、前に開催したときに盛況だったから違う作品でまたやろうという主催者側の都合もあるんでしょうけどね。別に今のものでなくてもいいから、今まで見たことがなかった人の作品を見に行きたい気持ちだけはある。
そんなわけで、2月の土曜、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムでやっていた「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展と、恵比寿のPOSTでやっていたホンマタカシの「シンフォニー その森の子供 マッシュルーム フロム ザ フォレスト」展をはしご。

932-aソール・ライター展は、一部初期のファッション写真なども展示されていたけれど、基本的には個人的に撮ったスナップが展示されていて、前回の時と雰囲気は変わらない。カラー写真制作のためイルフォードから資金提供してもらっていたり、亡くなる前の2006年に個展お開いているので個人的というのもちょっと違うか。
こう言ってしまうとなんですが、ソール・ライターの写真って、(ほんとはどうなのか知りませんが)、作品として写真を撮っていて、構図や色彩のバランスなどもすごく考えられているのにも関わらず、写真を見ていると、写真家が街を歩いたりしているときに個人的に撮ったすごい写真と思わせてしまうところが、わたしも含めて普通の人がひかれるポイントなんじゃないかな。しかもブレッソンみたいに隅から隅まで計算されつくしたような構図でもないので、ちょっと工夫したら自分もこういう写真が撮れるかも!?と思っちゃたりしてしまう。もちろん写真の専門家の人がどう評価しているかは別。
そういう意味でも、1960年代から1980年代にかけて撮影したファッション写真をもっと見てみて、それらの写真と街のスナップ写真がどういう影響し合ってるのかを知りたい。

932-b逆に、ホンマタカシの写真って、すごく仕事のできるビジネスマンのものすごく説得力のあるプレゼン、を見ている感じで、普通の人には撮れないし、撮ってもあんまりおもしろくない気がする。
この展示もきのこを撮ってるだけなんですよ。でもスタイリングも完璧だし照明なども完璧、しかもその完璧さをアピールするかのように、作品のサイズをかなり大きくしてる。なので、そのきのこをどれだけきれいに撮ってるのかというところに目が行ってしまうんだけど、さらにそのきのこについて、「東日本大震災が発生した直後、福島県の森に入り、そこに生えている放射性物質を吸収しやすいというキノコを撮影」みたいなストーリーまで作って(事実かどうかは別として)、より興味をもって写真をじっと見てしまうような仕掛けも作ってくる。
ホンマタカシのこういところがあざといと思ったり、写真を撮ることによって伝えようとしているものが何もないと思う人もいると思う。ただ写真家の一人としてこういうスタンスで撮る人がいてもいいと思う。ホンマタカシの場合、それが写真の技術などで裏付けがされていて、完璧な世界になっているところがすごい。逆に写真によって、社会の何かについて訴えようとしたり、自分の中の何かを表現している人だとしても、結局、見る人に伝えたいことを写真を使ってプレゼンしてる、とも言えるわけだしね。

2020年2月に読んだ本

■「ソラシド」(吉田篤弘)
931-a「ひとたび存在したものは、誰かの中で生き続ける―。拍手もほとんどない中、その二人組は登場した。ひとりはギターを弾きながら歌い、もうひとりは黙々とダブル・ベースを弾きつづけた。二人とも男の子みたいな女の子だった。彼女たちの音楽は1986年のあの冬の中にあった―。幻のレコードとコーヒーの香り、行方不明のダブル・ベースと白い紙の荒野。消えゆくものと、冬の音楽をめぐる長篇小説」

と帯に書いてあるだけれど、個人的な経験として、ミュージシャンやバンドを題材にして小説って、描かれている音楽に対する登場人物の思い入れみたいものが空回りしてしまって、読んでいてついていけないことが多い。
それは単に小説の中で描かれている音楽が自分の好みでないような気がするのに(実際に聴けないのでわからない)、物語の中で重要なファクターとして扱われることの違和感もあるし、逆に自分の好きな音楽だとしても、なんとなく違和感があって素直に受け止められなかったり、音楽好きは面倒くさい。

というわけで、この本も買っては見たもののなかなか読む気になれなかったのだけど、ふと表紙を眺めてたら、「これどこかで見たことあるな」と気づいてしまい、レコード箱を探してみたらエヴリシング・バット・ザ・ガールの「Each & Every One」でした。
ついでに帯を外すと、写真のレコードは表紙の元ネタになっているのB面の「Laugh You Out The House」で、すぐにわかるようになってた。写真に写す面をわざわざアルバム未収録のB面にするというところが、吉田篤弘らしい(のか?)。

となれば、読むしかない‥‥

稼いだお金のほとんどをレコードに費やしてしまう主人公と、その母親違いで、主人公とは親子ほども年が違う1986年生まれの妹が、1980年代後半にほんの数年間だけ小さな喫茶店やライブハウスを中心に活動していた女の子二人のユニット、ソラシドの行方を追うというストーリー。
何でも屋で古い雑誌を集めたり、雑誌などの紙が最終的に捨てられるというゴミ捨て場に行ったりしながら、ソラシドの足跡をたどるところはいつもの吉田篤弘の小説と同じ雰囲気。阿佐ヶ谷住宅まで出てくるし‥‥。
でも最終的にはソラシドの音楽を追いかけつつも、なんとなくわだかまりがあって前に進めなかった主人公と妹、父親、主人公の母親、妹の母親、そのほかの登場人物が、これをきっかけにそれぞれ前に進みだすというエンディングになってて、それまでの作りこんだ世界観がスコンと抜ける感じが爽快。

音楽もエヴリシング・バット・ザ・ガールの曲ももちろん出てくるし、ベン・ワットやロバート・ワイアット、エルヴィス・コステロ、プリテンダーズといったミュージシャンやバンドの名前も出てくる。
自分としては、ベン・ワットの「North Marine Drive」について、1986年、まだ駆け出しで本のレアイウターをしていた主人公が「土曜日で街が混み合っているので部屋でくすぶってた。ベン・ワットの『ノース・マリン・ドライブ』をA面からB面へ、B面からA面へと繰り返し聴いて一日が終わる。このレコード一枚から自分が読んでみたい小説が一ダースは書ける」というメモを残していたり、「1986年はピーター・ガブリエルの『Sledgehammer』の年だった。ラジオをつければいつも『Sledgehammer』がかかってた」といったくだりを読むとグッときますね。

それから、これは勝手な思い込みなんですけど、ソラシドってギターとダブル・ベースの二人のユニットで、文中にはブルースぽい曲を演奏しているみたいなんですけど、1986年で、若い女の子二人組ということを考えると、絶対フェイクだなと思う。XTCの「Seagulls screaming kiss her,kiss her」のカバーをしたりしてるし、1980年代後半のイギリスのブルー・アイド・ソウルやフェイク・ジャズ、ボサノヴァ‥‥ラフトレードやチェリーレッドのようなインディのポストパンク/ニューウェイヴみたいな音なんじゃないかと。
二人の演奏力は高いみたいだけど、年齢的にも時代的にもぜったい咀嚼できてなくて、気持ちばかり前のめりで今聴いたらどこか拙い音楽。読み終わってもう一度表紙を眺めたら、そういう音楽が浮かんできた。

■「ぼくの旅の手帖―または、珈琲のある風景」(森本哲郎)
931-b東京新聞、朝日新聞の新聞記者としてさまざまな国を回ったという経験をもとに、西ドイツ、ノルウェー、スペアイン、ギリシア、モロッコ、ネパール、アメリカ、デンマーク‥‥など、それぞれの国でのできごとをスケッチのようにつづったエッセイ集。副題に「珈琲のある風景」とあるように、ほとんどの国の文章のどこかでコーヒーを飲むシーンやカフェなどの情景が描かれている。

一つ一つの文章が短く、25か国の旅の様子がつづられているのですが、60年代の海外旅行、しかもアメリカやヨーロッパといった国々だけでなく、アフリカやアジアなどの国も多いので、話の内容としては、いろいろ大変なことが起きていて、続けて読んでいても飽きずにすいすい読める。
森本哲郎自身がどんな状況でも悲観的にならず、現地でのどんなできごとも楽しんでいる様子がうかがえるのがいい。一定期間、持ち歩いて、散歩の途中で見つけた昔からあるような喫茶店をでコーヒーを飲みながらページをめくりたい気分になります。

自分の中では、同じように日本各地の食材、料理を100つ、1つにつき見開きで紹介した吉田健一の「私の食物誌」と対になっている。両方とも段ボール素材の函で、サイズなども近い形だしね。
バラエティブックみたいに、雑多な感じのレイアウトの本も好きだけど、こういう短い文章をシンプルに収録しつつ、かつ装幀にもこだわった本も、手元に置いておいて、いつでも手に取って読める(持ち歩ける)ようにしておきたいと思う。

■「場面の効果」(井伏鱒二)
931-c帯に「著者の全作品の中から特に随筆風の好短編を精選して著者の素顔を映しだした異色の作品集」と書いてあるけど、まぁ普通に随筆です。つ
づられているのは太宰治との話だったり、父親のことだったり、釣りや旅行に出かけた時の話だったりで、内容としてもなんとなく前に読んだことがあるような話だったりするんだけど、それでも読んでて「知ってるからいいや」と飛ばす感じにはならない。話の内容はわかってるのに聞くたびに笑ってしまう噺家の噺を聴いてる感じに似てるのかな?

あと、太宰治が道を踏み外しすぎてるのでなんとなく井伏鱒二は常識人という印象があったり、本人もわりと自分は常識的な人だと思ってる節があるんだけど、話を読み進めていくとめちゃくちゃなことを言っていたり、やったりしてるときがあるのがおもしろい。

ある祝賀会に行って、羽織を着てくるのを忘れて会場に行ってしまい、主催者の人に羽織はなくて会場は暖かいので大丈夫ですと言われても、羽織がないと寒いと押し問答の末、会場を出てしまう。
なのに、会場を出たところで知り合いに会い料理屋で飲みはじめ、中野、荻窪と飲み歩いて、別れたところで別の人に会いまた飲んで、気がついたら秋川渓谷にいたとか。
読んでてなんでだよと突っ込み入れたくなるけど、まぁこのくらいじゃ、ほかの阿佐ヶ谷文士の言動に比べたら、常識人か。