「流れ藻」-庄野潤三-

金曜日は会社が終わってから大森で新年会。8時待ち合わせ。残業はしない予定なので6時過ぎに会社を出れば大森近辺で1時間くらいのんびりできるかな、駅前に古本屋とかないかな、お茶する時間はないだろうけどいい感じの喫茶店とかあるかな、事前にネットでいろいろ調べなくちゃね、などと思いつつ週の真ん中を過ごしてきたのだが、こういう日に限ってめずらしく6時から来客、打ち合わせ。結局、遅刻。
場所は、その日のメンバーのひとりの奥さんの実家がやっている南九州というお店。日本酒や焼酎が充実している居酒屋なのだが、私は隣の人の頼んだものをちょっと飲むだけでいつものようにビールを飲んでました。

その後はみんなそのまま友達の行っていたけれど、私はおとなしく帰宅。スーツで友達のうちに行くのはねぇ。なんだか落ち着かないような気が・・・・するんだよねぇ。

「どこ吹く風」-山口瞳-

「どこ吹く風」というのは、ここに出てくる女の人たちをさしているのではないか、という高橋呉郎の解説での言葉が本を読み進めるうちに胸に重くのしかかってくるような短編集。

登場してくる男たちはたいてい会社の部長だったり、近いうちに役員になるような状況の人だったり、若いのに実力(ってなんだ?)で係長になっていたりするのだけれど、会議で説得力のある話し方を学ぶためにテレビの解説番組を欠かさず見たり、宴会の時のために日本舞踊を習ったり、学生時代にやっていた競歩の練習と称して1時間かけて愛人の家に通ったり、だれもがどこか哀しく、滑稽で、しかも最終的にはそうした努力はあまり報われず、左遷されたり、会社を辞めることになったりする(それで「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」というわけだ)。それに比べて女たちは堂々としていて、しかもしたたかだ。
所詮、男たちは女たちを養うために、せこせこと働かされているということなのだろうか。

この本が出てからもう30年経っているわけだが、現在でも男たちはこうした傍目から冷静にみると滑稽な世界で、本気になって生きているのかな。私自分では気がつかないままにもそんな中のひとりになっているだろうかね。

「ku:nel」(Vol.6/2004.3.1)

「ku:nel」は、号を追うごとに「都会を離れて田舎でのんびり暮らそう」みたいな雑誌になっていくような気がします。確かに東京で自分のペースで暮らしてる人ってそんなにいないのだろう。ここに出てくる人もたいていがフリーで、しかも雑誌の性格上女の人がほとんどだ。
この雑誌と山口瞳のサラリーマン小説を交互に読んでいるとなんだか変な気分になる。片方は久保田万次郎の「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」に対して「なにがイロハニホヘトだよ、俺たちのイロハニホヘトは、どうもすこし、どぎつすぎるようだな」とつぶやく物語だもの(これだけじゃ全然わからない?)。
会社員でありながら自分のペースで暮らしてくなってことは所詮不可能なのかな、と通勤途中に半分眠りかけた状態で思ってみたりして・・・・。

ところで私はたいてい金曜日になると古本屋とかレコード屋など寄り道して会社から帰ってくるのだけれど、今週は金曜日に飲む予定だし今日はミオ犬が飲みに行っているので、ちょっと吉祥寺に出てみて久しぶりにアナログ盤を買ってみたりした。ついでにずっと気になっていたタオルかけを直そうと思って金具を買ってサクッと帰る。

うちにあるタオルかけは、2、3年前にマーガレットハウエルのお店で見かけたものをまねて作ったのだが、強度が弱くてガタガタしていたのです。金具を使わずにほぞを組むべきところを釘でごまかしたのがいけない。一応、穴は埋めたんだけどね。でもあまりにもゆらゆらしてしまうので背に腹はかえられずL字でおさえてしまいました。みかけはあまり良くないけど、タオルをかけてもきっちりとしているので満足です。

「雑文集 ネクタイの幅」-永井龍男-

表題の「ネクタイの幅」は、普段スーツを着る機会のない永井龍男が、たまに背広を着て出かけると「そのネクタイいいですね」とほめられる。でもそのネクタイはもう20年も前から使っているもの。それをあまりにもそれをほめられるので、ちょっと恥ずかしい気分になってしまう。
だから次に背広を着るときのために、新しいネクタイを買おうとするのだけれど、どのネクタイもどうも幅が太いような気がするし、長さも長いような気がする。友人の末息子にこれでいいのか聞いてみてもどうもすっきりしない、といった内容。

私も30をなかばにして初めてスーツを着て会社に通うようになって、毎朝ネクタイを締めるたびに「長いんじゃないかなぁ」と思ってしまう。
とりあえずスーツの下からネクタイが出てしまうのはOKなのでしょうか?ほかの人を観察しているわけではないのでよく分からないけれど、私のばあいほとんどの場合出てます。中にはどんなに細い方と長さを合わせてもズボンのチャックの真ん中ぐらいまで届きそうなものもあったりする。私の身長は168cmなので、特に背が低いってわけでもないと思うし、世の中168cmくらいの人って結構いますよね。
ネクタイを買うときってつい柄で選んでしまうものだけれど、長さもどこかに書いてあるのかな。まぁ書いてあってもどのくらいの長さが自分に合っているのかさえ分からないですけどね・・・・。

「河野鷹思」

先週はちょこちょこと本を買ったので、ここの更新ができるなと思っていた割には、金、土と飲みに行ってしまったこともありなかなか更新できず。
金曜日は去年の8月から10月頃に関わっていたイベントの新年会だったのだけれど、朝、延期になったとのメールが来ていた。で、しょうがないねぇなどと言いつつ、一緒に行こうと思っていた友達3人で渋谷のアプレミディの入っているビルの3階のカフェで飲む。といっても3人中1人はひとりは飲めないし、もうひとりは「最近酒を飲むと疲れる」ということで、まぁ夕ご飯ですね。

土曜のほうは大学の時の友達と池袋で。平均年齢34歳の男4人。昔の知り合いの消息やお互いの近況を交換。その頃の仲間で去年3人も離婚していたのにちょっとびっくり。以外と離婚ってあるのね。3人とも女の子というのはどういうことなのか。
結局、「バブルの時に年上の男とつきあっていい思いをした同年代の女の子はダメだね」という結論になる。ちなみに今回集まった4人の中で結婚してるのは私だけです。

「絵空ごと」-吉田健一-

吉田健一の小説は全部絵空ごとである、なんて言いつつ、でも吉田健一の小説のおもしろさはただそういうストーリーを追うところ以外にあり、また小説というのは結局のところどれも絵空ごとに過ぎないという吉田健一のメッセージもこめられているんだ、といったことはきっとどこかで誰かがもっと説得力のある文章で書いているだろうから、私が書いてもしょうがないわけなのだけれど、それとは関係ないことかもしれないが、とりあえずある本を読んでいるとその本を読んでいるその合間はなぜかその作者の文体で考えてしまうということで、ついこんな長い文章を書いてしまうわけです。

でもいくら吉田健一のスタイルで考え事をしていたとしても考えている“脳”は私のいつものさえない脳なわけで、いくら考えてもすばらしい答えが出てくることはないのだけれど、ふと片岡義男のエッセイを読んでいたときに出てきた「英語でものを話すことは、英語で考えることであり、強いては英語(圏)の考え方や論理の組み立ての学ぶことだ」という文を思い出して、吉田健一の本じゃなくてもいいんだけれど、ある作家の本を読み続けるということは、その内容だけからでなく自分の考え方さえもその作家に似てくるのかもしれない、なんてあたりまえのような結論に辿り着く冬の帰り道なのでした。